今日も一粒の砂を
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個体維持システムの一側面と複雑化したヒトコミュニティの功罪
実際に自分で観ないままに引き合いに出す点についてはこの際目を瞑るとして、少し思ったことを記録したい。
移動のため仕方なしに歩いているときに考えがこのような方向に向くことが多い。他にすることがないからだろう。

ミトコンドリアの反乱を描いたというパラサイト・イヴ。それとi robotだったか、ロボットの反逆をストーリーの基軸とした、そんな映画もあった。
これらの映画に共通することは内包するものとされるものとの間の葛藤である。
いや、何もこれらの映画がこんなつまらないことを言わんとしてるのだなどと主張するつもりは毛頭無い。
そうではなく、ただ気づきのきっかけとしての例である。

つまりはAに内包されるBという要素があり、即ちmetaな構造があって、AとBとの間で抗争があるという共通点である。

ここまで来てどうしようもないことに、丁寧に思考をたどれるように文章を構築するのが面倒になってきたので、結論だけ先にまとめると「日々の生活における順応との抗争の重要性」ということになる。

あくまで普段意識の行かない側面の一つとして、このようなものがあると思う。

この場合の順応とは広い意味で、外界からの全てのストレスに対する順応であり、これは生存の上で必須の適応反応である。何が問題であるかというと、順応による視野狭窄とも言うべき状態に陥る危険性を内包するという点である。
つまりは、一定の範囲内のストレスであれば、新しい刺激も繰り返されるうちにあたりまえの存在となってしまう。意識的な意識の対象外へと格納されてしまう。これこそが新しい知見を得る上で重大に警戒されるべき事態である。普段当たり前に思っていることでも、自らよく考えた上の結論として得られたものであれば、同じ知識であってもそうでない場合とは重みが違う。具体的に言えば応用可能性の点で差が出てくるのである。単純にstructuralな話ではなく、全く異なる分野で類似構造に気付くとか、盲点となっていた短縮路に気付くとか、そういった新しいものの見方、解釈が生まれる可能性を自ら廃していることになる。それも本来は生存のために、である。

生存のためにと言えば、少なくとも言語という意志伝達ツールに恵まれているヒトに関しては、生存という一つの目的に向けて、あらゆることを単純化する傾向があると言えるように思う。あくまで一つの側面として、ということであるが本題の今回にある極めて重要な性質と思う。

ここで言うあらゆることというのは、対象が個体としての生物なので、あらゆる外界からの刺激に対する反応として捉えるとわかりやすいだろう。これは即ちストレス応答である。生体防御システムとしての自然・獲得免疫などは良い例である。一度反応の道筋を確立しておけば、同様のストレスに暴露された場合に迅速かつ効率的に対応できる。

よりマクロなレベルでも同じことが言えると思う。つまりはより社会的なシチューションにおいて、ある仕事がルーチンワークと化した場合などがそうである。具体例として、事務作業としてのコピーを挙げよう。ある書類を10部コピーするという作業をする場合、普段は何も考えずにただ「コピーする」のである。しかし実際にはその行動な高度な協調運動により成り立っており、複数の動作が順序よく行われることで達成される。そしてその一つ一つの動作にも対応筋の収縮・弛緩、そしてその支配神経の興奮や大脳皮質運動野のニューロンの興奮がバックグラウンドには存在するのである。協調運動に関する小脳による調整、10という数の概念の認識と選択、それに基づく運動指令やコピー機の使用方法の理解、さらには書類の表裏の認識など、その構成要素について言及すればきりがない。

そしてさらに、その「コピーする」という行為は、その個体の生命を維持する最低レベルの活動とは全く関係のないものであり、それは身体が心拍や血圧、反射、意識レベルなど、広い意味でホメオスタシスとも言うべき環境の維持とは別に、プラスアルファの作業として行われるのである。コピーしている当人はそんなことには意識が及びもしない。

これは生存に適する性質が、効率を求める実務的な問題と方向性の点で合致したことによって強められた傾向の現れであるとも捉えられる。つまりは要不要の取捨選択能力が誰もに備わっており、特に複雑化した現代のヒトコミュニティにおいてはその行使が不可欠であるということである。

冗長に話を繋いでしまったが、言いたいことは、生存本能と、それに合致しそれを助長する社会環境がもたらす物事の捉え方の単純化は、効率性という点で言えば大変有用かつ不可欠ものであるが、その一方で自らの可能性の芽をつみ取るものでもあるということである。些細な気づきが、ブレークスルーとなるかもしれないのだ。

さて、だからこそ、順応に抗う必要が生じてくる。外界からの刺激が適正な範囲内であれば、何も考えずに放置していれば自然と慣れてくるのだ。しかし、もしかしたらその入力が非常に有用な知見をもたらしてくれるかも知れない。所謂鋭い着眼点とか、新しい見方というものは、順応への抗争によってより得られやすくなるのではないか。

これ以上は本題から逸れるので今回は割愛するが、それこそ極めて当たり前のことを言っているに過ぎないのである。

さて、こんな話がどうして先に挙げた映画と絡んでくるかというと、下らないことではあるがmetaな構造を持った要素どうしの衝突という構図が気に掛かったという、ただそれだけである。

上の文章を見ると、まるで自分が類似構造に気づけたことを自画自賛しているように見えて不本意だが、とにかくはそういうことであるのだ。



本当に短い覚え書き程度に止めようと思ったのだが、こんなにも長くなってしまった。
誰かが新書でそんなタイトルの本を出していそうだが、やはり何をするにも妄想力は重要ということだろうか。少なくとも個人的にはそう思う。

昔の記事みたらですます調でうっつーい内容を書いていたんだなぁ、と思ってしまう(笑
過去の自分の文章っていうのは、発見もあって面白いのだが、あまり読みたくないものでもある。

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